こんにちは、渡辺有です。
もっと身軽に、もっとシンプルになりたい。その思いから親の遺品も手放しています。
親の遺品をメルカリで売って、お金に替えるのってヒドいことでしょうか。
遺品はずっと持っておかないとダメ?それっていつまで?
売るのはダメだけど、捨てるのならOK?
不要なら手放す、それは遺品も同じ
ここ1か月ほどで、母の遺品のアクセサリー類をかなりの数メルカリで売りました。
母はそれほど多くのアクセサリーを持っていませんでしたが、ときどき大事そうに見せてくれました。
その中のいくつかについては「お母さんが危なくなったら、他の人に取られないようにさっさと持っていきなさい」と冗談めかして言われたものです。
母が選んで大切にしていたものなので、できればわたしも使いたかったです。
普段からお守りのように身につけたり、そうでなくてもお出かけのとき使えたらよかったのですが。
しかしどれも似合わないのですよ。
デザインも古くて使えないし、かといってリフォームするほど価値のある石ではなく。
試しに思い入れの少ないものを何点かメルカリに出品してみました。
デザインの古さもあって反応はあまりありませんでしたが、それでも売れました。
それから少しずつ「もう手放してもいいかな」と思えたものを出品していきました。
そして最後には、母が買ったときのことを嬉しそうに話していた「さっさと持っていきなさい」と言われたネックレスも売りました。
後悔はないけれど罪悪感はある
母の遺品をメルカリで売る。
姉が聞いたら卒倒すると思います。激怒するかもしれません。
アメリカ在住の姉は、スーツケース一杯に遺品を持ち帰ったり、食器類を何箱も送ったり、両親のアルバムを叔母の家に置かせてもらったりしています。
わたしの何倍も愛情深い人です。
母の遺品をメルカリで売ってお金に替えてしまったなんて、口が裂けても絶対言えません。言えないということはつまり「遺品をメルカリで売るのは悪いこと」だと感じているわけです。
でも後悔はありません!
母が遺してくれたけど、それを使いこなせない自分。せっかくの遺品を持て余して、見るたびにもやもやする自分。
モノを手放すことによって、そんな自分も手放すことができました。
これは遺品に限らず、全てのモノに共通することではないでしょうか。
もやもやの発生源が手元からなくなってスッキリです。
モノをモノとして機能させてあげたい
わたしは結構、モノに感情移入してしまうほうです。
花を飾るために買われた花瓶が、一度も花を飾ることなくしまわれっぱなしだとかわいそうに思います。
遺品だとしても、元は役目を持っていました。
装飾品として母をときめかせ、ときどき首元を飾り、わたしに受け継がれたネックレス。
わたしの手元にきた途端、箱に閉じ込められて身につけられることもなく……それならいっそ、ネックレスはネックレスとして使ってくれる人の元に行った方が、モノにとって本望では?と思えてくるのです。
わたしのもやもやの原因のひとつに「モノをモノとして機能させてあげられない罪悪感」もあったのだと思います。
手放してよかった思えた「ひとこと」
いろいろ考え、納得して、メルカリで売ったアクセサリー類。
手放して終わりではなく、予想外の嬉しい結果が待っていました。メルカリで購入してくれた人たちの「ひとこと」です。
「ステキなお品をありがとうございました」
「とても気に入りました」
「大切に使いますね」
それぞれが嬉しい言葉を伝えてくれました。
それを聞いて大げさではありますが、モノの命のバトンをつなげられたのかなと思ったのです。
母がいなくなっても、わたしがいなくなっても、モノはモノとして役目を果たしながら続いていく。なんか嬉しいじゃないですか。
遺品を手放すのは慎重の上にも慎重に
とは言え、他の人に「遺品はメルカリで売りましょう」なんて、絶対オススメはしません。
たいていのモノは買い戻せますが、遺品はムリです。手放したらお終いです。
自分で納得できて、気持ちに折り合いがついて、そこからさらにじっくり考えてから決めても遅くはありません。
母のアクセサリーは結局、ふたつだけ残しました。母の結婚指輪と、遺影で身につけているブローチです。
母を思い出すためのアクセサリーは、これだけあればわたしには十分です。
他にもたくさんあるハンドメイド品や食器なども、じょじょに減らしていきます。
最後に残された数点が、母の思い出の結晶のような、かけがえのないキラキラしたものになるのだと思います。